わたしの来た道 vol.10 (中島 啓喜)
三井記念病院、我が郷愁
三井記念病院は千代田区の北東部、台東区との境に位置する。台東区からの患者さんが最も多いというのが私の印象だ。両区の夜間人口から考えても、おそらくそうであろう。台東区は私の生まれ育った場所だ。
中学生の時、父にせがんで自転車を買ってもらった。「ロードマン」という変速機つきのドロップハンドルのスポーツ自転車だ。得意になって、日々あちこちへ行った。この辺りは平坦な土地がほとんどで、愛車を駆り、心の趣くまま移動できる。上野の山、不忍池、隅田公園など。この秋葉原界隈ももちろん自分の庭だ。
高校・大学も家から近く、自転車で通った。研修医として働きはじめた大学病院も自転車通勤だ。ただ、この頃はその高い機動性のためではなく、むしろ終電が無くなっても自分の時間軸で移動できるということで使っていた。そんな研修医時代のある日、大学の研究室の先輩より、三井記念病院で後期研修をしてみないかという話があった。子供の時から知っているまさにこの病院だ。強い縁を感じずにはいられなかった。
自分としての医師像を確立させるための濃厚な時間がはじまった。広く、深く、そして多くを学ぶべく必死で働いた。この病院で過ごす一分一秒が自分の血や肉になっていくのを感じた。ある朝、あまりに張り切りすぎて辛くなったのか、病院に行けなくなった。それでも、娘を背負った妻の自転車伴走で、病院の玄関まで見送ってもらい、何とか勤務できた。その時の光景が、建て替え前の旧病院の建物とともに、今でも鮮明によみがえる。一方で少しすると、不思議なことが立て続けに起こった。実家の隣人や父の知人が入院してきた。中島さんの息子さんだろ、と温かく声をかけてくれる。お世話になった小学校の担任の先生。立派になったね、と涙ぐんで再会を喜んで下さる。その後も多くの方々と再会することとなる。惜しみなく全身全霊で多くを教えてくれた塾の先生、小学・中学校の同級生とその家族、研修医時代住んでいた賃貸住宅のオーナー夫妻、実家の墓を守る寺の住職、娘が通っていた幼稚園の園長先生とその家族。外来でも病棟でも顔を合わせる。懐かしい人々との邂逅。はじめは大きな驚きだったが、地元で働くということはこういう事なのだろう。母の診察券番号は87ではじまる。1987年、つまり、昭和62年から30年近く当院で世話になっている。私の娘二人もこの病院で生まれた。地域の人々、私の家族を含めて、皆がこの病院を信頼し利用してくれている。
まさしく顔のみえる医療だ。いい加減なことはできない。そのときその時が真剣勝負だ。この病院に私が最初に赴いたのは平成5年で、途中、大学病院の勤務が数年あったが、医師になってからの大半をここで過ごしてきた。幼少期に、この地域に育んでもらい、更に社会人になってからは、医療・医学のほとんどを教えてもらった。言い換えれば、医師としての生命を吹き込んでもらったのだと思う。心から感謝をしたい。ともに生きる、これは当院の標語だ。今後もこの病院に勤務し、地域の皆様と一緒に歩み続け、微力かもしれないが、恩返ししたいと思っている。
出典:三井記念病院広報誌『ともに生きる』「智情意」(Vol.15、2015年7月23日発行、三井記念病院 広報部)