わたしの来た道 vol.16 (戸田 信夫)

前回の東京オリンピック直前である1963年東京の荒川放水路沿いの工場街で生まれた。生家も町工場で父親は夕方まで油まみれで働いていた。生まれる前年、川の数キロ上流を舞台に吉永小百合さんを主演に映画「キューポラのある町」が撮られ、近所でもロケをしたらしい。出来あがった映画を両親も鑑賞し感じ入ったそうだ。レビューによると「鋳物職人の娘ジュンが、父の解雇に始まり、貧困、進学、組合、差別など、さまざまな社会問題に直面する。しかし決してめげることなく、まっすぐに青春を堪能していく姿を感動的に描いた、社会派青春映画の名作である。」とある。当時の日本は高度経済成長期と習ったはずだが、それでも多くの人達が両親同様額に汗して日々を送り、こんな映画に共感するような環境にいたのだろうか。私と言えば子供のころは病弱だったようで2度救急車で搬送された記憶がある。行くと必ず痛いことをされるので医者と病院は大嫌いだった。

20年ほどが経過し、日本の産業構造の変化か周辺の町工場は生家も含めて殆ど見かけなくなり、映画で見る社会問題は現実離れし、そして自分はあれだけ嫌いだった医者になっていた。大学を卒業し内科に進路を決めたが、消化器内科に誘ってくれた現獨協学園理事長寺野先生の「君はあそこが一番向いている」の一言で研修先は三井記念病院となった。当時の三井記念病院は今にして思えば心臓血管外科の須磨先生(ドラマにもなった有名な先生)、脳神経外科御存じ「神の手」福島先生、循環器内科心臓カテーテルの山口先生、消化器内科は鵜沼先生などきら星のようにSuper-starがおり、そこに集う医師、技師さらには看護師とも志が見上げる程に高かった。「有名な病院」程度の認識で来てしまった私は当初どこが向いているのだろうかと頭を抱えた覚えがある。3年間の研修であったが良く持ったものであると今でも思っている。

その後母校に戻ったが、幾つかの施設を数年刻みで移動した。大学の医局に属すると、関連する市中病院に一定期間出向する習わしがある。会社勤めの転勤と似たようなものであろうか。非常に幸いだったのが行く先々に自分が専門とした消化器学の柱をなす内視鏡、放射線診断学、これらを用いた治療、さらに外科分野など超一流の先人がいたことだ。誰も手とり足とり教えてくれはしなかったが、彼らの技術を間近に見られたことに加え、ひとつの症例に対して彼らがどう考え、如何にアプローチしていくかの過程を、実診療を通して知ることが出来た。計り知れない経験を積めたが、これも三井記念病院での3年間の土台があったからだと勧めてくれた寺野先生には感謝している。

和洋含めて医学教科書は膨大な数があり、大きな書店に行けば医学書だけでワンフロアを占めている。しかし文書の知識だけでは医学は成り立たず臨床実地経験が必要である。自分が積み上げてきた経験を、次の世代に伝えることが、多くを遺してくれた優れた先人達、そしてなにより額に汗して人生を送り、その最後に私に経験を積ませてくれた患者さんたちへの心ばかりの恩返しだと思っている。

出典:三井記念病院広報誌『ともに生きる』「智情意」(vol.21、2017年1月23日発行、三井記念病院 広報部)

関連リンク

戸田 信夫 (消化器内科 部長)

戸田 信夫消化器内科 部長

1990年
東京大学医学部 卒業
2009年
三井記念病院 消化器内科 部長
学会認定
日本内科学会認定施設における日本内科学会認定医制度の研修医の指導医
日本内科学会認定内科医
専門分野
各種消化器悪性腫瘍の診断治療
上部下部消化管内視鏡検査
胆道膵疾患の内視鏡治療
腹部画像診断
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