わたしの来た道 vol.17 (田邉 健吾)
私は、埼玉県大宮市(現さいたま市)の生まれである。祖父が海軍の軍人で、戦後、公職につけなったため立ち上げた封筒などを作る会社を父が継いでいた。肩書きは社長だが、中小企業の状況は厳しく、業績が悪いと自ら給料カットという具合であった。父は私に、「継がなくてよいから手に職をつけなさい」と言った。
祖母が肺がんで亡くなったり、私が左肘を複雑骨折して手術を受けたりと医療に接する機会があり、高校のとき医者になりたいともらすようになった。両親が周囲に笑顔で「息子が医者を目指す」と話をしている光景を見ると、反抗期の私は社会的地位が高いから医者になるわけではないと反旗を翻した。学問を追及し、数学・物理でノーベル賞を目指すといって理学部志望に転換、大学の数学を教える塾に通った。最後の問題を解ければ授業は聞かなくてもよいという塾であった。私は必死に聞かないと解けなかったが、他校の精鋭達は授業中、漫画を読んでいても解くことができていた。
国立が2校受験可能となった元年に受験を迎え、第一志望の東大理Iに合格、入学手続きをした。しかし帰宅して床につくと嬉しくない。本来は医師になりたかった気持ちと、認めたくはないが数学では通用しないという自覚もあった。甲子園には出たが、プロをめざす投手の直球と自分との違いに気づく高校球児のような気分だ。すると東大理Ⅰの練習で受験し合格していた名古屋大学の医学部から電話がかかってきた。「名大医学部にこないか?」と。ひとつ返事で行きますと答え、東大理Ⅰに退学手続きをして、縁もゆかりもない名古屋で入学手続きをした。
大学の数学を学んでいたので、名大1年の授業は楽勝でつまらなく大学に行かなくなり、バイト・部活・パチンコ・ディスコの生活となる。すぐに落ちこぼれとなり追試で何とか進級という年度末を繰り返し、5年生を迎えた。先輩から落ちこぼれを面倒みてくれる腎臓内科の先生を紹介してもらい我が学年の落ちこぼれ勉強会が開始となった。医師国家試験の過去問を解くのだが、我々は、WBC(白血球のこと、医学部生では常識)という単語の意味がわからず質問したところ、鍛えがいがある学年だと、先生が大笑いした。先生は、何の略語か知らないのに偉そうに略語を使う医者は悪い医者だから、その姿勢でよいと言った。また、国家試験に合格するのが目標ではなく、よい医者になることが目的の勉強会だと言った。そのためレントゲンの問題では、英語の教科書を1冊読んでレントゲンの基礎を学んでから問題を解くよう指導された。以降、医学がとても面白くなり勉学に勤しんだ。
先生から他大出身も多くいる環境が鍛錬になると聞き、御三家といわれる三井記念・聖路加・虎の門を受験予定としたが、落ちこぼれからのスタートで時間が足りず、最初に合格した東大病院で1年研修後、2年目から三井記念病院で働く機会を頂いた。三井では同僚も皆、患者さんをよくすることに必死で病棟の消灯後、頻繁に治療の討論をした。多忙で1~2週間帰宅できないこともざらで体はきつかったが、着実に力がついているという充実感があった。今でも、三井では、少しでも患者さんをよくするべく、自己研鑽に励む伝統は続いていると思う。
とかく医師はハードな仕事であるが、私の恩師の先生のように、今度は、私が後進に医学を学ぶ充実感を伝えていきたいと考えている。
出典:三井記念病院広報誌『ともに生きる』「智情意」(Vol.22、2017年4月24日発行、三井記念病院 広報部)