わたしの来た道 vol.21 (星地 亜都司)
高校生の頃、手塚治虫のブラックジャックという漫画を読みながら、ひとがやれないような手術をやるのもいい感じと思ったことがありましたが、医学部を受験したのは、どちらかというと難関に挑戦したいという気持ちからであり、今振り返ると医者になってよかった、と後付けで思うのであり、まあ結果論みたいな感じがします。医者の資格をもちながら他の職業をやっている人も世の中にはおり、たとえば東大医学部を出て血液内科をやっていたのに、いつのまにか文芸評論から社会に対する論評まで幅広い著作活動を行っていた加藤周一(著作集はいまだに本棚に健在)のごとく、医学部に行ってからでも職業選択肢はあるのだとは思います。柔道、ボート、野球などで体力や勝負勘をつちかい、どちらかというと器用なほうでもあったので、外科系を最後は選ぼうと思いました。多くの整形外科志望の若者が最初に思うように、スポーツ好きという理由で整形外科に行きました。試合に帯同というとカッコいい感じもしましたので機会があれば出かけていました。レスリング世界選手権でドーピングに携わったこともありました。しかしながら、どうも日本のスポーツ医学というのは、正直、ぱっとしない感じで、選手からはトレーナーと勘違いされているような感じですぐやめにしました。脊椎とか神経とかにやりがいがありそうで、当時は今よりも成績も悪く、この道はもっといろいろやることがありそうだと思い、脊椎外科医としての道を歩み始めました。技術取得にも長い時間を要しそうで、逆に当分飽きずに仕事に打ち込める分野であろう、と思ったりしました。病院勤務と大学の教官という二つの立場で働き、気が付いたらもう「エライベテラン」みたいな感じになっています。先日の理事会でずいぶん久しぶりに肝移植の幕内先生とお顔を合わせたところ、髪の毛のことを真っ先に指摘されましたが、「アナタモデショ」と言いそうになり、まぁ歳をとったということです。
勝ち目がなさそうだから無理しない、とか、そんな症例に手術して大丈夫か、とか言って干渉してくる上司のことが嫌でたまりませんでした。リスクがあってもやらないともうその人の人生が終わってしまうというときに、他に引き受け手もいない場合に、私はあえて「自分の持っているものを全て出し尽くしてやれることをやる」という超攻撃的姿勢です。聞こえは格好よいのですが、思い上がりもいいところかもしれないのは自覚しています。良い結果を出せず申し訳ない気持ちで一杯になってしまうこともあります。自分一人ではもちろん通せないやり方であり、三井記念病院は、素晴らしい麻酔医や内科医のバックアップ、手術センターの受入体制、川崎洋介科長の成長や若手の術後管理、全員の団結により、何とか老骨に鞭をうちながら、ハイリスク患者とともに生きる、をやっていけています。ホント、馬鹿ダナ俺ハ、と時々思うけれど。
出典:三井記念病院広報誌『三井記念病院通信』「智情意」(2018年7月号、2018年7月20日発行、三井記念病院 広報部)